【1-2日目】「車輪の下」「ケーキの切れない非行少年たち」を読んだ

7月10日(金)

起床10:40

就寝01:30

 

7月11日(土)

起床10:50

就寝00:30(理想)

  04:00(現実)

 

昨日はサボってしまったから、今日は二日分書こうと思う。こうやって書き始めてみると、前日の記憶すら曖昧なことに気がつく。

 

10日の始まりは確か中国語の授業だった。予習を前提とした授業だけに、毎回の予習の時間がきちんととれない自分にとってはとても辛い時間だ。一週間に二日ほど、2時間くらいの勉強時間が取れれば十分だと思うのだけれど。あらかじめ設定しておくしかないかな。

 

珍しく授業をわりかし真面目に受けた私は、後輩の料理の誘いを断り、課題に専念すると言いながら、ヘッセの「車輪の下」に夢中になってしまった。これはかなりの反省点だ。18時までに終わらせなきゃならない課題が2つもあったにもかかわらず、ぱあにしてしまった。現実逃避にも程があるし、余計に現実を辛くしてしまった。

 

主人公ハンスのラストシーン。私には心なしか、あれはハッピーエンドなのではないかとまで思えた。確かに彼は死んでしまった。でもそれは現実に絶望して首をつったからではない。単なる不幸な事故で命を落としたのだ。最後に「生」の喜びを知ったあとで。

 

ハンスは神学校から脱走し、故郷に帰った後自害する準備までしていた。それが「第二の少年時代」を味わい徐々に本来の姿を取り戻してゆく。本文中の表現を使えば、斬られてしまった木のそばに「芽」を出したのだ。

 

ヘッセはいう。その芽はもう木にはなれないのだと。でも私は思う。人生というのは最終的に何になったかではなく、どう生きたかだと。木になんてならなくたって良いのだ。新たな目を芽ぶかせた、ただそれだけで、切られて腐るだけよりどれだけ尊いことだろう。

 

いかんいかん、脱線しすぎた。

 

そんなこんなで本を読んでいたら5-6時間が過ぎ、授業が始まった。テレビと新聞とでは、報道の自由に科される義務が違う、という話が面白かった。テレビは公共の電波を割り与えられている、という扱い。政治的に公平であることが求められる(米国では1984に公平原則が撤廃されているが)。一方で新聞は勝手にやっているものだ。もちろん不偏不党であることは大切だが、義務ではない。ここで大切なのは、「不偏不党」という言葉だ。特定の党にべったりなのは問題がある。しかし、個々の政策については立場を明らかにしていけないはずがない、ということだ(もちろん新聞記者は事実のみを述べ伝えるだけなのだが)。

 

授業が終わると「ケーキの切れない非行少年達」を読んだ。本来は守られなければいけない子供達が、「健常」と「異常」の狭間で支援を受けられずに苦しみ、堕ちてしまうのいう本。彼らは「境界知能」と呼ばれる。私たちが世界を捉えているフィルターである「認知機能」が歪んでいれば、見えている世界ももちろん歪んでいる。そんな歪んだ世界で生きている彼らに「反省」を強いるよりも、まずはその歪みを直してあげなければいけない、という本。

 

これを読んでいたら23時くらいになっていたかな。あとは「夢をかなえるゾウ」のいうとおり靴を磨いていた。傷が多くて綺麗にならない。どうしたらいいんだろう。今日は募金しなくちゃ。最後に風呂と歯磨きで一時間くらい。そして寝た。ジャー史のリアペ忘れてたどうしよう。気がついて寝た。今のままじゃ、「普通寝遅起き」だなあ。でも要するに、自分はロングスリーパーな方だってことがわかった。

毎日7時間半〜8時間は寝たい。早く寝るといい眠りにつきやすいから、条件を整えれば0時から7時くらいまでで満足できそうだけどな。そのためには23時には全部の仕事を終わらせて、風呂に入らなくちゃ。がんばろう!

 

今日は酷かった。遅くに起きたのにダラダラして過ごして、後輩の誘いを先延ばしにしても課題をやらず。結局ジブリの映画すら見にいけなかった。

 

でも、シンガポール料理の「カヤジャム」はおいしかったな。 ココナッツミルクが予想以上に臭くてびっくりしたけれど、出来上がったものはカスタードっぽいほんのりとココナッツの甘味がする美味しいジャム。思ったよりもサラサラ。量産したい。温泉卵は失敗だった。やっぱりレンジで作るべきじゃない。

 

映像の世紀」を初めてちゃんと見た。映像作品として面白い。そんなこんなで午前1時を過ぎ、ダラダラしていたら4時になっていた。だめだこりゃ。